りん子ってどんな人?

私のこと

父は韓国人、母は日本人の日韓ハーフ

京都市出身1990年生まれ

在日韓国人2世の父と日本人の母との間に生まれた日韓ハーフ

幼少期は父の両親と同居をしており祖父母は韓国語がネイティブでしたが父は韓国語が話せず日常会話は日本語で行われてました。

祖母は会話中の単語や独り言は韓国語でしたので私にとっては初めての外国語でした。

子供の頃はハーフといえば目鼻立ちくっきりでおめめパッチリのお人形さんみたいなイメージなのか、この純アジアンハーフの顔に向かってどこがハーフやねん!といじられたりしました(笑)

ざ…残酷〜(^_^;)

3歳からピアノを習い絶対音感が身につく

私の母は祖父母2人の介護をしていました。

私を妊娠している時も大きいお腹で寝たきりの祖父を担いで、介護に育児と本当に大変では言い表せないほどの苦労をしたと思います(またお話ししますが祖母と小姑達は韓ドラさながらの嫁いびり)

介護に明け暮れ友達も作れず自分の時間も殆どなかったと話す母は、3歳になった私に週に一度ピアノの習い事を始めさせました。

ドレミファソーラファミ・レ・ドー♪でお馴染みヤマハ音楽教室の3歳児ランドというクラスです。

親同伴の教室は母にとって介護から解放される唯一のリフレッシュタイム

近くの喫茶店でプリンアラモードやパフェを一緒に食べて帰るのがお約束でした♪

レッスンはCMと同じで先生は音名をピアノで弾き、その音名を子供達は声に出す

そして和音にして聴かせる

色んな和音を繰り返して耳を育てる

音感だけではなく色々な打楽器でリズム感も養います。

救急車の音はシーソーシーソーから遠ざかっていくとシ♭ーソ♭ーシ♭ーソ♭ーもっと遠くなったらラーファーラーファー

電話の保留音はソードレミファソード・ドー(カノン)などなど

音階があるもの全て脳内で勝手にドレミに変換され、自分に絶対音感があるという事に気づいたのは小学校低学年の頃です。

教室に電子ピアノがありお友達が毎日同じ曲を弾いているので覚えてしまい、練習もせず弾けるいわゆる耳コピをしていました。

でも四年生でピアノを辞めてしまいソナチネ半分くらいまできましたがぶっちゃけ楽譜はなんとな〜くしか読めません。

楽譜を理解して弾くのではなく、先生のお手本を聴いて弾いてしまっていたんだなと思います。

中学受験で私立へ通うも高校は地元の高校へ

進学塾のお金って結構高いですよね

サボって遊んでばかりいました

お母さんごめんなさい(>人<;)

結局第一志望に受からず女子校へ進学しますがここから地獄の3年間が始まります。

いじめに合う

地元で男女皆わいわい仲良く過ごした小学生時代

女子校で浮く存在になりいじめに遭います(また詳しく記事にまとめます)

ざっくりいうと私の性格は

  • 曖昧が苦手ではっきり物を言う
  • 群れるのが嫌いで自分の居場所はその時次第
  • コソコソ自分に向けられた悪口が聞こえてしまったら離れてても直接向かってなに?と聞き返してしまう

こんなんだからいじめられました。

最初から女子校適性無さすぎる(笑)

クラスのリーダー格にいじめられて周りの子達は自分が標的にならないようこぞって私を無視してあからさまに除け者にする

私物を隠され教科書を破られ捨てられ上履きに画鋲がテープで固定されていたり…

お弁当も一人、授業でペア組む時も余る、私が話しかけても冷たくあしらわれる

リーダー格の子は自分が犯人という事を隠さずあえて堂々と酷い事を繰り返しますが、私は3年間静かに耐える事はしませんでした。

泣くな!!涙がもったいない

犯人がわかってる分とても気楽でやられたらやり返す精神がこの頃とても強かった私。

リーダー格に同じような事をやり返して、お互い犯人が分かりながらお前の事が嫌いだ!!!と直接ぶつけ合うかのような戦いが続きました(^_^;)

不登校の子もいたのですがこんなしょうもない小さな世界、人生でたったの3年!負けてたまるか!

戦うと決めてやっっっと迎えた卒業

また高校受験をして無事に地元の仲良し達が通う高校へただいま〜してきました^ ^

高校卒業後は専門学校へ行き、ネイリストの道へ進みます。

23歳で約1年間の韓国留学

りん子の家では祖母が日常的に韓国語を話すのですが家族に対しては韓国語版ルー語を話します。

なので単語ぐらいは自然と理解していました。

法要なども韓国式でやってきたので日本式を経験したこともありません

幼い頃から自身のアイデンティティについて関心があり、せめて言葉くらい理解できるようになりたい

もっと韓国の文化や暮らしを肌で感じたいと思うようになり23歳で約1年間の韓国留学を経験しました。

自腹留学のため少しでも費用を抑えるべく留学前にハングルの読み書き、簡単な会話ぐらいは独学で学んだので下から2つ目のクラスからスタート出来ました。

1年間でTOPIK4級の中級(日常生活が問題なく過ごせる)に合格

明洞のネイチャーリパブリックでアルバイトも経験しましたよ〜

帰国後はゲストハウスや観光地でカメラマンとして勤務

留学中はとてもグローバルに国際交流を楽しめました。

ルームメイトはアルゼンチンの女の子で母国語がスペイン語ですが英語は普通に第二言語でペラペラ

そのうえ韓国語まで学ぶの〜?!ってな感じで多様な生活を送っていたので徐々に英語にも意欲が湧いてきました。

国際交流ができるお仕事となると真っ先に観光地が候補に上がります。

一つは遊覧船で船上カメラマン

二つ目はゲストハウス運営とフロントのお仕事をしました。

韓国語は意外とどこでも使う機会はありましまが英語がつたなすぎて、くやしい…

と思うようになり少しずつ英語も独学でスタートすることにしました。

不妊治療歴5年目初めての体外受精

着床するも心拍の確認が出来ない

結婚後は産婦人科でタイミング法を2年ほど継続しましたがなかなか結果が出ず思い切って体外受精に踏み込みました。

クリニックを転院し新たなステップのスタートです。

お仕事はフルタイムなので医師の指定日に通院して毎日薬を飲み注射に通ったりと普段の生活がガラッと変わり、ホルモンバランスも投薬によって変化し結構しんどかった時期でした。

結果的に1度目の体外受精で着床してひとまず喜んだのも束の間、胎芽の確認ができず次回診察で心拍の確認もできなく自然排出を待つか吸引するかの選択を余儀なくされました。

このような状況を稽留流産と呼ぶそうで流産という事実がとてもショックで毎日悲しんでいた記憶が残っています。

心と体の療養の為1年間治療をお休み

治療のために我慢していたお酒やプライベートを思いっきり楽しんで気持ちも切り替えられたので1年後に2ndステージへ進みます。

2回目なので大まかな流れは経験済み

治療は少し気楽に向き合うことができました。

心配していた胎芽も無事見え心拍の確認、先生から憧れだった言葉【おめでとうございます】を聞くことができました。

不妊治療についてはまた詳しく記事にしたいと思います。

0歳4ヶ月の時に始めたあれこれ

ネントレ開始

りん娘は赤ちゃんなのに全然寝ない子でした。

かなりショートスリーパーで眠りも浅く抱っこで寝て下ろしたらギャー!の日々に悩まされていました。

これをいつまでかわからないけどずっと続けていくの多分私無理だわ!と思い始めたので流行りのねんねトレーニングについて調べまくって実践してみました。

6ヶ月から【ファーバーメソッド】という方法を我が家流にアレンジし日々トライ&エラーの繰り返しでしたが、8ヶ月頃から一人で寝れるようになりました。

夜泣きせず朝まで夜通し寝るようになったので私も体力や心に余裕ができてねんトレ感謝バンバンザイでした!

おうち英語

おうち英語は4ヶ月からdweの教材を中古で購入し毎日の習慣化としています。

英語を生かす生かさないは今後本人次第ですが、本人にとって常に最善の選択ができるよう出来る限り環境を作っていくつもりでおうち英語をスタートさせました。

インターに通うのがインプットアウトプットまで完結できるので一番いいのですが、高いので夫婦で話し合いの真っ最中です(´・ω・`)

おうちモンテッソーリ

自立と自律を目指すモンテッソーリ

家具の配置や子供への接し方など書籍やYouTubeで色んな方の知識を取り入れて、ゆる〜くおうちモンテを実践しています。

りん娘のおうち英語とモンテッソーリの経過なども今後記事に記録していくのでよかったらご覧ください

娘が1歳になる前にブログを設立

2人目は不妊治療をするつもりはなく我が家はりん娘が最初で最後の子供かもしれず、初めての育児や子供との生活に慣れてきたこの頃…

娘と過ごす日々は毎日が新しい発見や成長が見られその先にうんと広い世界が広がっているのに、無難に一日をこなしなんとなく歳をとっていく感じにモヤモヤを感じ始めていました。

特別な事がある毎日ではないけれど1日を振り返ってゆっくり自分と向き合って褒めてあげたり明日の自分にアドバイスしたり…

あと娘が20歳になったら母子手帳と育児記録も兼ねてずっと隠し育ててきた、家族のあれこれがいっぱい詰まったこのブログを娘に公開しようと思っています。

遺言とかも娘にわかるパスワードで書いてたりして(笑)

娘がこのブログを手に取った時、どんな事を思うかな

そして私はこのブログを老後のお酒のつまみに美味しく美味しく育てていきたいと思います♪